2012年から3年半もの安定政権を築いている安倍晋三首相。しかし、第一次安倍政権はわずか1年で瓦解。自ら「政治家としては一度死んだ」と語るほど政治的挫折を味わった。そんな安倍首相はどのようにして挫折から這い上がったのか、どのように政治家として歩んできたのか。安倍首相の政治家人生を紹介。
天と地を味わった政治家
2012年12月26日、96代首相に安倍晋三氏が選出された。自民党にとって3年半ぶりの政権復帰、そして安倍首相にとっては5年ぶりの政権復帰となった。一度首相を辞任し再び首相の座に帰り着いたのは、現憲法下では吉田茂元首相以来2人目である。
安倍首相は2006年9月26日に初めて首相に就任した。
小泉内閣で自民党幹事長・内閣官房長官など要職を歴任。ポスト小泉候補4名麻垣康三(麻生太郎・谷垣禎一・福田康夫・安倍晋三)の中で最有力候補と目されていた。2006年9月、小泉首相後継を争う自民党総裁選では出馬した麻生・谷垣両氏を大差で下した。
国民的人気を誇った小泉氏同様、安倍新首相は国民の強い期待のもとに誕生した支持率は65%を誇り、初の戦後生まれ政治家の首相就任に日本中が沸いていた。就任早々の外遊では、小泉前首相の靖国参拝で関係が悪化していた中国・韓国を訪問し関係改善に大きく貢献する。
しかし、閣僚の不祥事が相次いだ。事務所費の問題、不適切な発言の数々に、内閣支持率は下落の一途をたどる。そして、事務所費問題がクローズアップされた松岡利勝農水相が議員宿舎で首つり自殺を遂げる悲劇も起きてしまう。追い打ちをかけるように旧社保庁の年金記録問題も浮上し、逆境の中で迎えた参議院選挙で自民党は大敗。首相続投を表明するも、わずか1か月後に安倍首相は辞任し入院生活に入ったのである。
政界のサラブレッド
安倍首相は1954年9月21日、当時新聞記者を務めていた安倍晋太郎の次男として生を受けた。祖父は岸信介、叔父に佐藤栄作、父は安倍晋太郎、まさに政界のサラブレッドというにふさわしい。
会社員として3年間勤務したのち、中曽根内閣で外務大臣を務める父晋太郎の大臣秘書官に就任。政界の門をたたく。晋太郎は竹下登・宮澤喜一と並ぶ総裁候補であったが、リクルート事件が騒がれた時から体調を崩し、首相就任を目前にした1991年に死去。父の地盤を継ぎ、93年の総選挙に出馬し安倍首相は初当選。晴れて衆議院議員となったのである。
保守政治家として
当選後、父晋太郎が派閥領袖を務めていた三塚派(現細田派)に所属。親米色の強い三塚派議員として、保守政治家として鳴らす。1995年には同派閥の小泉純一郎が総裁選挙に初出馬。小泉選対で中核として活動したことで、小泉氏の知遇を得ることに成功。
その後、石原伸晃や塩崎恭久などの若手保守政治家と連携し、リーダー役を務め、確実に首相への道を歩む。2000年には森内閣の内閣官房副長官に、小泉政権でも留任し2003年には若くして自民党幹事長に就任する。
このように森内閣から小泉内閣に至るまで、安倍は終始政権に近いポジションにいた。早くから総裁候補として、時の首相の期待を背負っていたのである。
内閣官房副長官当時、安倍の保守政治家としての強い一面をうかがわせる出来事が起きる。
小泉首相の北朝鮮訪問である。安倍はこのとき、北朝鮮に強い態度で臨むよう小泉首相に進言。結果拉致被害者5人の帰国が実現した。さらに、当初は期限付きの帰国であった拉致被害者の北朝鮮再帰国にも強硬に反対し、5人の日本永住を実現させたのである。以来、安倍は拉致問題を自身の最優先課題として主張するようになる。
悲願の首相再登板へ
さて、第一次政権で大きな挫折を味わった安倍であるが、なぜ再登板を果たせたのだろうか。それは体調の回復もあるが、前回の挫折から多くを学んだ結果だろう。
第一次政権が瓦解したのち、安倍首相は自らの反省点を徹底的にノートに書き連ねたそうだ。反省、そして日本の現状への危機感、それが安倍首相を突き動かしたのだ。
谷垣総裁の後継を決める総裁選挙には、同じ派閥の町村信孝が立候補を決めていた。本来の自民党なら、同じ派閥から2名の総裁候補が出るなどというのはありえないことである。しかし、安倍は自民党の古い体質に決然と対抗した。そして、日本の現状を憂い、「日本を取り戻す」と高らかに宣言した。そして史上初の自民党総裁再登板、現憲法下で2人目となる首相再登板を果たしたのである。