民主主義が意味を成さなくなる

現在の日本は、江戸時代までの封建制度からやっとのことで民主主義となりました。明治時代から民主主義らしきものはあったにせよ、それは頼りないものでした。本格的に手に入れたのは戦後かもしれません。以来ずいぶんの時がたちましたが、果たしてうまく機能しているのでしょうか。

やっと手に入れた参政権のはずが

明治時代に施行された大日本帝国憲法では、すでに選挙と議会を制定していましたが選挙に参加できたのはほんの一部の富裕層のみでした。
それから長い時を経て男女の区別なく20歳以上の国民全てが選挙権を持ったのが昭和20年です。自由民権運動や大正デモクラシーを経て、今ではようやく誰もが当たり前のように選挙権を持っています。
江戸時代の終わりから選挙権を求めて実に77年かかりました。

やっと手に入れた参政権ですが、今では当たり前のようになってしまったのか、総務省の調べでは昭和42年から平成26年までの投票率(衆議院総選挙)の推移に興味深いデータがあります。

衆議院議員総選挙における年代別投票率

昭和42年から平成2年までの投票率は70%前後の推移ですが、その後は投票率が下がる傾向が見受けられ、平成26年では52%でした。その年によって上がったり下がったりはしています。選挙の争点によって関心が高かったり低かったりするのは当然ですが、全体的に下がる傾向が見て取れます。
特に20歳代の投票率は昭和42年には66%だったのですが、平成26年では32%です。

政治への関心が薄れてきているとは言われていますが、投票率を見ると確かにそう感じます。
そもそも70%あれば良いのか、私には疑問に思えます。残りの30%が参政権を放棄したということですから。中にはどうしても投票に行けない事情もあるのでしょうけど、面倒くさい、興味がない、その他の理由が大半を占めているように思えます。
日本だけではなくイギリス・ドイツ・フランス・アメリカも投票率は高くはありません。

投票する気にならない病

「選挙に行ったところで何も変わらない」そんな意見もあるでしょう。
確かに何十万票、何万票ある中のたった一票では、宙に舞う綿ぼこりよりも軽いです。一票差で当落が決まることも考えられません。
数多くまとまった組織票ならば影響力はありそうですが、どの団体にも属さない浮動票の我が一票はあってもなくても同じように思えます。これが投票率が下がる心理的原因だと思えるのです。

また「この人に入れたいと思える人が候補者にいない」そんな意見もあるでしょう。これもまた私自身も実感するところです。
およそ立候補者がいつもの面々に加えて、まったく見知らぬ新人が1人2人のなか、誰も知らぬ新人に投票したところで当選者とは大きくかけ離れて落選していますから、結局いつもと同じ様な候補者が入れかわり立ちかわり当選している現状です。
なんと軽き我が一票でしょうか。しかし、それでは77年の苦労を経て手に入れた選挙権は「もういりません」と言っているのと同じです。

いびつな民主主義かもしれない

代表議会制は間接民主主義です。代議士を選ぶという形で国政に参加することになります。
そこで重要なのはどう選ぶのか、何を頼りに選ぶのかということでしょう。

議員の日常の活躍を見ることができるのは、政治の場に近い人々だけです。一般の国民はマスコミを通じて政治家の評価をしていくしかありません。ともすれば国民はマスコミに情報操作される可能性があります。
つまりマスコミから高い評価を受けていれば国民からも評価が高くなるという現象が生じるということです。また、マスコミが取り上げない政治家は評価不可能、まったくわからないということにもなります。

そして、評価が難しいせいか知名度だけで当選してしまう現象も多々見受けられます。政治家としての資質は度外視され、ただの人気投票で決まっているかのようなケースもあります。まるで、「品質を見定めるのが難しいからブランドで信用しました」とも思えるケースもあります。

突然現れた、知名度もなく宣伝効果もなく政党の後ろ盾をもたない候補者は「どこの馬の骨だ」と、関心すらもたれないです。
私の親戚がとある選挙に立候補したのですが、2000万円使って落選しました。あっという間に2000万円失って何もなしです。

そして投票しない人が少なくて3割、多いと5割に及びます。結局、選挙はやっているものの何か「得体の知れない主義政治」のように思えます。

民主主義を改めて素朴に見つめなおすと

一部の人が政治を独占することがないように民意を反映させようとするものが民主主義です。
誰もが参政権を持っているものです。参政権は選挙権だけではなく立候補する権利も当然あるわけです。

民意はおよそ個々の人が持っている願望、つまり「私の願いを叶えてほしい」です。
多数決の間接民主主義なら、本当の議論は選挙の時であって、選挙が終わった時点で結論が出ています。いかに優秀な選挙を行うかが決め手となります。
国民が優秀な政治的考察を持っていなければ、いい加減な選挙結果を出すだけに終わります。

このように素朴に見てみると問題点も見えてきます。選挙制度の見直しと言うけれど、小選挙区制にするとか比例代表性がどうとか、そこを見直したところで立候補者が選挙戦の戦い方が変わっただけに過ぎないように思います。
本当に見直すべきは他にあるでしょう。

1「あっという間に何千万円失ってもかまわない人ならば立候補できる」は見直すべきです。誰でも立候補できるならワンコインで立候補できるシステムであっても良いはずです。

2マスコミの情報を頼ること以外に政治家を評価できるシステムが必要です。ここにインターネットが生かされるべきだと思います。
個々の政治家が勝手にブログを書いているのではなく、全ての現職政治家の発信を一箇所に集約サイトを公的に作成しておくべきだと思います。

3個々の願望を集約できるシステム、つまり浮動票を組織票に変換するシステムが必要です。民意を取りまとめるシステムを構築すれば、浮動票も擬似的な組織票に変えられると思います。
投票行動も組織的になると勢い出てきて、個々に思っているだけの状況から実現可能性まで想定した選挙ができるでしょう。

4経済対策と憲法改正がセットになってしまう選挙ではなく、政策ごとに投票できるシステムが必要です。インターネットが普及した今、投票所で紙に書いて投函する以外にもっと金のかからない方法があると思います。

5政治政策に関しての教育が必要です。政治思想と教育が絡んでしまうのを嫌って、政治教育は避けられてきたでしょう。
しかし、政治政策や経済政策とその効果を過去の事例に学ぶことくらいはあっても良いと思います。

民主主義も時を隔てるとともにすっかり当たり前のものになってしまいましたが、当たり前にあるものにはありがたみを感じないのが人間の性でしょう。国民に気合の入る選挙制度改革が必要だと思いませんか。

蛸焼太郎

蛸焼太郎

京都府京都市在住。30代、男性。 小料理屋の板前を13年勤めるも、体を壊して静養中。 結局たこやきが一番うまいと最近つくづく思う日々をすごしています。

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