1.SNSの拡大による教育現場の変容
私が教壇に立った初年度、副担任として関わっていた高校のあるクラスでSNS(ソーシャルネットワークサービス)に関する問題が起こった。
簡単な内容はこうだ。5人組のグループがあり、彼女たちはいつでも一緒にいた。しかし、そのうちの一人が突如、その5人がやり取りをしているアプリケーションのグループから追い出されたのだ。この事実は、その「被害者」の子の母親からのメールで発覚した。
これに対して、学年の担当者らは「注視する」立場をとることを決めた。
なぜなら、学校生活ではその5人グループは今もって「健在」だったからだ。SNSの世界では「仲間はずれ」にしながら、現実では同じグループのメンバーであることを装っていたのだ。
高校生世代にとって、SNSの持つ意味は非常に大きいものとなっている。それは大人の感覚とは大きく異なるものになっている。この件では、教育現場にいる教員とSNSを利用している高校生の間の、ソーシャルなつながりに対する認識のずれが端的に現れていた。問題の多くがSNSの世界で起こっていたのである。
2.SNSの利用におけるメディアリテラシーの欠如の問題
教育現場でもメディアリテラシーに関する教育は行われている。技術科の時間、現代社会の時間などに項目が設けられている。
しかし、学問の世界での一般論は生徒たちの耳にはどこか遠くの音にしか聞こえていない。また、「これはやっちゃだめ」、「これはメディアリテラシー的に問題がある」といった内容は、いわばネット世界での情報の取捨選択にかかわる問題としてのみ扱われる傾向にある。本当の問題はSNSを利用する中でもおこっていることを感じさせる内容の授業は少ない。
SNS時代のメディアリテラシーは、いわばネット世界での責任にかかわる問題だ。誰もが簡単に情報の発信ができ、誰もがネット上での活動で現実世界に影響を与えることが容易になっている。そういった中では、自分の発言、行動が社会(周り)にどういった影響を与えるのかをしっかりと認識する必要がある。
3.「時代遅れ」の教育現場
中学・高校から始まるメディアリテラシー教育の遅れはもちろんのこと、SNS時代には初等教育からメディアリテラシーに関する教育を行う必要があるだろう。
現代では小学生でもスマートフォンやiPhoneを利用し、日常的にSNSに触れている。そういった中で、音楽や体育の専門教師がいる一方、ジェネラリストだらけの小学校現場にSNSのプロフェッショナルがいないことに大いに「時代遅れ」である感を受ける。
ネットの世界はその性質上、過去には「アンダーグラウンド」と呼ばれ、社会的な価値観では下位に定義されてきた。スポーツや芸術と比べて、一種の「蔑み」の対象であったのだ。その感覚は、今でも教育現場に公然と残っている。
SNSの利用のみならず、様々な面で情報教育の重要性は増している。社会に出れば、ネット環境を整えるだけで仕事ができてしまう場合もある。コンビニでバイトをしようが、大手の企業に就職しようが、研究者になろうが、町の小さな工場で働こうが、ネットの世界を利用してビジネスが大いに行われている。そういったところに触れずに成長していく子どもたちが、SNSの利用だけは自分の責任で行わされている現状に、教育現場の「時代遅れ」を感じずにはいられない。
4.SNSのプロフェッショナルを教育現場に
極端な話になるが、「イチロー選手が学校で野球を教えます」というものと、「アフェリエイト収入だけで生活しているブロガーが学校でSNSの利用法を教えます」というのは全くもって同じような価値があるものだ。
どちらも子どもたちにとって意味のあるその道のプロフェッショナルである。
炎上商法などといわれるが、SNSで生活している人たちこそ、SNSの怖さを身を持って知っている人はいない。
ある動画投稿サイトの配信者には、1日に100件ほど、動画を見ている小中学生から「死ね」「殺すぞ」といったメッセージが、自身のSNSアカウントに届くそうだ。
そういった経験をしている彼らだからこそ、SNSにかかわるメディアリテラシーの問題を語るのに最適のはずである。政府機関、学校現場はそういったSNSのプロフェッショナルを現場に向かえることを真剣に検討すべきだ。このままの状態が続けば、SNSを利用した教師の目には見えない「事件」がさらに増えていくことだろう。