論理性の無い憲法改正問題を読み解く為に、日本国憲法を読みましょう!

日本国憲法を読んだ事がありますか?国の基本が書かれている日本国憲法を是非お読みになってみて下さい。崇高な理念に感動したり、世界に誇りたくなったりすると思います。先の参議院選挙の影の争点であった憲法改正について考える時、日本国憲法を知らないのでは判断ができません。政治に関心を持つきっかけにもなります。是非一度日本国憲法をお読みになってみて下さい。

国権の最高機関

日本国憲法第41条には、国会が国権の最高機関と規定されています。国の唯一の立法機関である国会は、国権の最高機関として重大な機能を有しているのです。その国会においては、論理的な議論のプロセスが最も大事な事で、そのプロセスが公開されて、主権者たる国民一人一人がそのプロセスを見聞きし、考え、民意が形成されて行きます。

ところが、昨今の国会では、本来あるべき論理的な議論がなされないまま、法案の審議や採決が行われている傾向にあります。国権の最高機関における議論が論理的に行われていない事実というのは、由々しき事だと思うのです。これは、ひとえに国会議員の質の低下と、その事実を見逃してしまう主権者との関係性によって助長されていると言わざるを得ません。

何故国会がこの様な状態にあるのか。憲法改正という課題で、少し考えてみませんか。

憲法改正したい派の非論理的論拠

現在の日本国憲法について、多くの国民は大事に考えています。国の根幹となる法律を大事に考えない国民などいないでしょう。ところが、現在の日本国憲法を改正したがっている人たちが存在しています。彼らの最大の論拠は、日本人自らが制定した憲法では無いという理由です。これこそが非論理性の最たる事として認識されなければならないと筆者は考えるのです。政治や立法の世界から道をそらします。

物事の良し悪しは内容が良いか悪いかではないでしょうか。どんな物事にも、賛成者反対者が存在します。

極めて解り易い事例でお話ししましょう。天婦羅そばが美味しいか美味しくないのか。美味しいという人もいれば、美味しくないという人もいます。どちらにも理由があります。そば粉の香りがしないのか、天婦羅の揚げ方が悪いのか、だしの味が悪いのか、そばを茹で過ぎなのか。それは天婦羅そばの美味しさと言う、料理の自体の良し悪しであって、調理人がアメリカ人であれ日本人であれ、美味しい天婦羅そばは美味しいのです。作った人の国籍が問題なのではなく、美味しいか美味しくないかという事実が問われているのです。

おわかりでしょうか、憲法も同じです。改正したい人たちは、アメリカ合衆国が日本に押し付けた憲法だと言う理由で改正が必要だと主張しますが、日本独自で作ろうが、アメリカの関与があろうが、憲法の内容が良いのか悪いのかが問われている筈です。

良いのなら変える必要は無いし、悪いのなら変えれば良い。先勝国の関与があるかないかは、憲法の改正理由にするには論理的に説明できません。それが憲法改正派の人たちの非論理的な論拠なのです。彼らは何が問題かを言わずして、アメリカ合衆国の関与ばかりを理由にします。そして、面白い事に、アメリカ合衆国の関与を理由に憲法改正を論じているのに、彼らが最も親アメリカ合衆国派であることです。ここにも整合性がみられません。

又、別の側面もあります。敗戦国日本だけで作っていた当初の草案は、大日本帝国憲法のマイナーチェンジ程度の草案で、現行の日本国憲法の様な国民主権、基本的人権、平和主義の精神は盛り込まれていなかったと言われています。敗戦国だからこそ、戦勝国が理想主義を掲げて関与し、現行の日本国憲法が存在しているという事実もあります。憲法改正派は、おいしい天婦羅そばであっても、アメリカ人の関与した天婦羅そばは美味しくないと言っているのと同義です。

全く議論しないという非論理性

一方護憲派という人たちもいます。彼らは現行の日本国憲法の精神は世界に例を見ない崇高な憲法であるが故に、一言一句変える必要は無いという考え方の人たちです。これだけ現行憲法を愛してやまないのですから、国家に忠誠心の高い愛国主義者かというと、これが全く逆で左翼又はリベラルに属する人たちなのです。

これも面白い傾向です。彼らは、憲法について改正する必要性の議論をする事を嫌います。昨年の安保法制で集団的自衛権が行使できる国に変わってしまいましたが、この様に憲法に規定が無いが故に法解釈で守られて来た手段的自衛権が、解釈によって変更させられてしまった事実をとらえれば、明確に集団的自衛権が行使できない様にするには、逆に憲法に規定すればできなくなる筈であるのに、彼らは一言一句改正の議論をしようとしないのです。この態度も非論理的と言えます。

より平和主義に徹したいのなら、集団的自衛権の行使が可能か否か書かれていない現行憲法の条文を、行使できないと改正した方が、政権の勝手な憲法解釈を排除できるにもかかわらず、彼らは頑なに反対するのです。これは、改正の議論を始めると、数の力で押し切るに違いない現在の政権を危惧しての事でもあるので、一利はあるのですが、全く議論をしないと言うスタンスそのものが論理的では無いのではないでしょうか。

メディアの功罪と自らの判断

憲法改正という課題だけをとっても、こうした非論理的な議論が国会内で行われているにもかかわらず、多くの国民にはこの事実が伝わりません。それは、日本のジャーナリズムの質が低下しているからに他なりません。

最も顕著なのは、報道しないという不作為です。これには政権や与党のメディアに対する有形無形の圧力があるとも言われています。そもそも政権の横暴を批判する事がジャーナリズムの最大の目的である筈なのに、それが行われていないという事が顕著です。その為、政権に対するチェック機能が働かず、国の方向性が偏っていく可能性があります。

ですから、冒頭の呼びかけを再度行います。日本国憲法を読んでみましょう!そして、国の方向性が、日本国憲法に規定されている国のあり方からずれていないかどうか、主権者である我々一人ひとりが判断すれば良いのです。

日本国憲法前文1項前段に「主権が国民に存する」と書かれています。主権は私達一人ひとりにあるのです。この国で幸せに生きる権利があり、そのことを保証してくれているのです。立法府、内閣、行政組織が、日本国憲法の規定している平和で穏やかな日本であることを補強しているのか、ないがしろにしているのか、それを判断するのは、論理性を持った主権者である我々国民一人ひとりです。

政治は政治家が行いますが、政治の結果で生きるのは日本国民全員です。私たちが平和で幸せに過ごせる為に、政治があるのです。その基本が日本国憲法なのですから、日本国憲法を読んで、政治に関心を持ちましょう!

扇ガ谷道房

扇ガ谷道房

弱い物いじめが大嫌いな50代の男性です。神奈川県在住で、小さな会社の経営者をしています。政治については若い頃から強い関心を持っています。