重度障がい者の政策や、昔の重度障がい者の生活と言えば座敷牢と言いまして、家族の中に重度障がい者がいるだけで社会から隔離されてしまうという時代から、今の重度障がい者は個性がかなり尊重されるようになってきた流れを書きます。
昔の障がい者の暮らし
まず私のことを説明をすると、重度障がい者で生まれつきの脳性まひで、脳性まひも色んな種類があり、アテトウゼ型と言いまして手足が勝手に動いてしまいます。
簡単に言うと赤ちゃんが手足をばたばたさせているのと同じで、頭の中は41歳ですが運動機能は生後半年の私の体験や気持ちを書きます。
私が6歳の頃、35年前ですが親から聞いた話です。昔の重度障がい者は学校も行けなかったので、まともに教育を受けられなかった時代がありました。戦時下のドイツでは重度障がい者が産まれないように中絶したという話も聞きます。私が小学校に入学する2年前に義務教育が始まりました。
障がい者権利宣言
重度障がい者が犬のように扱われた戦時下のドイツや、戦後の日本のように重度障がい者が家族にいると言うだけで社会から阻害される時代があり、重度障がい者は家の中で閉じ込めて育てると言う座敷牢が当たり前でした。
私が生まれた翌年の1975年に国連が障がい者の権利宣言をしたことが国の障がい者政策を変えるきっかけになりました。それからはさまざまな法律が整備されて、その中に重度障がい者でも義務教育が受けられる法律があり、特別支援学校と今は言いますが、昔は養護学校と呼ばれていたそこに私は通えました。
障がい者運動の始まり
重度障がい者でも義務教育が受けられるようになってからは、昔のように座敷牢に閉じ込められて育った重度障がい者は減り、その代わりに教育を受けて育った重度障がい者が増えました。
1975年に国連が障がい者の権利宣言をして、重度障がい者の権利や暮らしをこのままで良いかと考え出す重度障がい者が現れ、1980年代の障がい者運動に繋がっていきます。
私はこのとき小学生で、障がい者運動のことは何も知らずに育ち、後から障がい者運動の記録映画を見ると電車やバスに乗るために無理やり乗ったり座り込んだりして、社会に権利を訴えてくれたおかげで、今のバリアフリー社会の基礎がこのとき出来たのだと知りました。
障がい者権利条約
重度障がい者でもヘルパーや補助具を使いながら健常者と同じ生活が出来るようになり、2000年に介護保険が始まると自公政権は重度障がい者も介護保険で一本化したいという考え方で作られたのが障がい者自立支援法です。
この法律で今まで自立していた重度障がい者が生活が出来なくなり、国会の周りで重度障がい者がデモをした事もあり修正されました。
そもそも2006年に国連が障がい者権利条約を発行して、日本が批准しなかったのは自公政権の障がい者も介護保険で一本化したいという考え方があったからです。
民主政権になると障がい者権利条約を批准しましたが、すぐ自公政権に戻りました。
障がい者権利条約には国内法を整備する義務があり、そこで作られたのが障がい者差別解消法です。
4月から始まりますが骨抜き法で、自公政権では「障がい者が生きることをサポートする」という考えで作られたものという事がわかります。
一方で、国際社会や民主政権では「人らしい暮らしを障がい者がするためにサポートする」という考え方です。この違いはものすごく大きなものです。
もし民主政権なら、この法律がどんな法律になっていたか、重度障害者という立場として見てみたかったです。