合理的判断。簡単そうに見えても集団の中にあれば難しいものなのか。否、簡単なことだから、簡単に考えればいいのではないか、そんなことを強く強く最近思っています。久しぶりの善然庵閑話シリーズです(善然庵閑話-ぜんぜんあかんわ-とは、遠藤周作の狐狸庵閑話-こりゃあかんわ-をもじって書き記している駄文シリーズです)。
明治の時代、思想家として対比されるのが中江兆民と福沢諭吉です。学のない私の勝手な理解ですが、福沢は、国家が発展するためには西洋を導入して文明化しなければならない、未開は負けるのであって勝つためには文明化が必要だ、と説きます。そして、その発展段階では、搾取も必要悪として超現実主義をとります。そして脱亜入欧、富国強兵へと進み、ある種、文明化を成し遂げた時代の寵児になります。マクナマラみたいなものでしょうか。福沢が現代に生きていたなら、恐らくは搾取必要悪説はとらなかったでしょうが、いずれにせよ、前進、発展、成長を指向する方向です。
一方で、中江兆民は、ご存知の通り自由民権運動の理論的支柱となった人物で、ルソーに心酔していた人物。教科書的には、ナイスなイメージで、自由民権運動という政治運動を成し遂げた後に第一回衆議院議員となる。けれども、結局、藩閥政治に嫌気がさしてすぐに辞任。直後から、明治政府批判を続けます。そして失意のうちに亡くなる。自由民権運動の成功者ではあるけれど、時代の成功者ではなかった。
中江兆民が心酔していたルソーという人物は、宗教界の革命者であったルターのようなもので、当時、神からすべてを授かっていたと考えた社会では、異端であったはずです。というのも、ルソーは、人間というか国民というものは、そもそも自然として平等である無垢な存在であったはずなのに、発展によって富の格差が生まれ、争いと不調和によって、いずれは滅亡するか、少なくとも国家は維持できなくなるほどに劣化していくものだとします。
だから、そうならないために、国家というものが国民との社会契約によって自由と平等を担保しなければならない、と説きます。そして国民の一般意思(投票)によってのみ国家が定められるものだとします。だから、ルソーも中江兆民も典型的には復古の方向、古き良き時代に戻るべき、というのが思想の源流になっているのだと思います。
戦後の左翼思想家は、その中江兆民が幸徳秋水の師匠であったことからなのか、そもそも中江兆民が儒教的には陽明学派であって反権力思想に結び付きやすいからなのか、中江兆民を左翼思想家と評価したために、現在ではそういうイメージが付きまとっていますが、どうも私にはこの論は分からない。
思えば戦後の大思想家で進歩的文化人であった丸山眞男が福沢諭吉ファンであったことは有名ですが、普通に読めば思想の方向は全く逆です。だから、丸山眞男の福沢諭吉評があまりに行間を読み過ぎていて独自解釈に過ぎる、これじゃ丸山諭吉じゃないか、と揶揄されたりもしていますが、これと同じように、中江兆民も誰かが行間を読み過ぎて独自解釈したから、こうした違うイメージになったものだと、私は独自解釈しています。
いずれにせよ、福沢諭吉も中江兆民も、岩倉使節団で西洋を見聞きし、日本はこのままではいかんと思った。ただ、全く同じものを見聞きしたはずなのにも関わらず、帰国後にやったことは結構違った。違ったのですが、結局は、右派とか左派とかではなくて、これが交互に竜巻か三つ編みのように捩じれながら、思想は明治を駆け抜け、歴史を作り上げていくことになる。
中江の思想は、その弟子である幸徳秋水から、どうもおかしくなる。当初、中江兆民の晩年のように、明治政府批判を繰り返していたようですが、それはあくまで中江兆民と同じように日露開戦前の雰囲気の中でのルソー的非戦論に裏打ちされた主張であったように見えますが、そのうち左傾化し、また達観したのか無政府主義となり、最後は大逆事件で死刑宣告される。論理としては、ルソー思想を曲解すればキリスト排斥となり、そのキリストのメタファーとしての天皇は排斥すべき対象となったのだと思いますが、いずれにせよ、おかしくなって刑死する。
そこからがまた不思議なのが、この幸徳秋水の考えは、明治から昭和初期の時代の、キリスト教に否定的な右派から支持されることになる。この時代は、日本の歴史の中では極めて例外的に神道が国教となっていた時代なので、そういうことになったのだと思います。
この福沢と中江の二人だけ取り上げてみても、明治から昭和初期というのは、当初では想像もできないような方向に流れていき、あり得ない戦争手法が生まれる。もちろんこの数少ない登場人物だけで断じることなど到底すべきものではありませんが、思想的には極めて複雑な歴史を辿ってきたのだと思えてなりません。
幸徳という名前が戦中に再度現れることになります。昭和の陸軍軍人である佐藤幸徳です。ゆきのり、ではなく、こうとく、です。幸徳秋水とは全く関係ありませんが、なぜこの名前をご両親は付けたのかが気になります。恐らく思想的には心酔していたのではないかと思います。
佐藤幸徳は、当時のエリート軍人で、盧溝橋事件に関わった牟田口廉也の陸大4期後輩。同時期に勤務した参謀本部時代に統制派と皇道派の考え方の違いから(当然、幸徳が統制派)関係が悪く、後に共に参加した悪名高いインパール作戦では、軍司令に牟田口が、そして隷下の師団長に佐藤幸徳が就く。
インパール作戦とは何かと言えば、これまた木を見て森を見ず的な滑稽な作戦です。当時、連合国が中国を支援するために使用していた主要な補給路の一つに援蒋ルートというのがあったのですが、これを攻略すれば中国軍に打撃を与えられる、ということになり、そこで立案されたのがインパール作戦。
ところが、補給路を断つ作戦の立案に、自分の補給路の計画が全くなかったというオチになっている。一体全体どういう発想なのか全く理解に苦しむわけですが、当然、当時も多くの参謀から大いなる反対論がでていたにも関わらず、牟田口の積極案が取り入れられ、大本営陸軍部から命令が下って9万という大軍で侵攻を開始した。(チャンドラ・ボーズと手を結び、インドのイギリスからの独立運動を誘発するという側面が作戦目的の主だったものですが)。
幸徳は、当初から、補給路が確保できないとして、この計画に公然と異を唱えていたそうですが、侵攻中にイギリス軍からの徹底的な抵抗にあい、また険しい山間河川を渡るうちに引き連れた家畜も散逸し、食料弾薬も実戦に使われることなく散逸。幸徳は、司令部に再三に渡り補給の要請をしますが、「現地調達して進撃せよ」との回答がくるばかり。そのうち、ガダルカナルと同じような様相を呈しはじめ、最終的に幸徳は司令部に、「参謀長以下幕僚の能力は、正に士官候補生以下なり。しかも第一線の状況に無知なり」「司令部の最高首脳者の心理状態については、すみやかに医学的断定をくだすべき時機なりと思考す」などの辛辣な司令部批判電報を出して勝手に撤退。陸軍最初の抗命事件でした。軍団隷下の他の師団長がどういう判断を下したのか分かりませんが、他に数人更迭されたとの記録が残っています。
幸徳は死刑も覚悟していたとのことですが、このために、1万という兵士が無駄に命を落とさなくてすんだ。当時の価値観で言えば断罪されてしかるべきであったと思います。現代的に言えば合理的判断になるのでしょう。しかし、私自身は、幸徳によくやったという気にはなれず、むしろ、この非合理的な作戦を平気で立案した体制、そしてその非合理性を認識しつつも、この論が平気で通ってしまう組織的体制の欠如、更には参謀本部の責任所在の不明確さこそが断罪されるべきものだと思っています。
いずれにせよ、幸徳という名前から想像できる結果が歴史の中で生まれたことは事実であって、複雑さを感じずにはいられません。因みに、インパール作戦に参加していた幸徳師団の兵士はほとんどが四国からの参戦者であったと言われています(高松に幸徳を悼む碑が建立されているのだとか)。中江兆民が居なければ、あるいは岩倉使節団に参加していなければ、あるいはルソーとの出会いがなければ、恐らくは幸徳秋水は生まれておらず、佐藤幸徳もおらず、四国人である私はこの世に生まれていなかったのかもしれません。
合理的判断。繰り返しますが、簡単そうに見えても集団の中にあれば難しいものなのか、否、簡単なことだから、簡単に考えればいいのではないか、そんなことを強く強く最近思っています。
出典:大野敬太郎オフィシャルサイト「オピニオン」【2018年3月15日公開】