パラオ

千鳥ヶ淵墓苑戦没者遺骨引渡式

ずいぶん酷い作戦を各地で強行したものです。戦時中の混乱期とはいえ、そして情勢の切迫感があったとはいえ、軍部首脳は、合理的解決方法を見出すこともなく、現場に責任を押し付けることを続けてきた結果、310万人という途方もない数の戦死者を出すことになりました。

もちろん個は国を憂い家族を思い散華された。その想いは世代を超えて戦後世代に届き、我々の大きな勇気と力になっていることは間違いありません。そして二度と戦争なぞするまいという確固たる信念に繋がっています。

しかしなぜこんなことが起きえたのか。戦後多くの方が解明に取り組んでこられたので私はここでは論じようとは思いませんが、ただ、一言だけ言えば、組織という集団心理の暗黒が、人間がもっている本質的な闇の部分であるとするならば、この310万人という事実を、そして戦地でどのような作戦命令があって何が起こっていたのかという事実も、日本人は未来永劫に亘って心に刻み続けることによってのみ、未来の議論ができるのだと思います。

というのは、なぜこのような事態が生じたのか、二度と繰り返さないためには何が必要なのか、を考えれば、必然的に、憲法上の統帥権や国家構造、もしくは軍部構造の問題などが注目されがちになりますが、こうしたシステム構造も極めて重要である一方で現場の目線も大切なのだと思っているからに他なりません。なぜならば、システムを作るのも動かすのも結局は人だからです。

先日、東部ニューギニアから遺骨収集団が帰ってこられ、ご遺骨の引き渡し式典(千鳥ヶ淵戦没者墓苑遺骨引渡式:依頼元の厚生労働省に依頼先の遺骨収集団が引き渡す)が執り行われ、私も出席をいたしました。今回は83柱のご帰還が叶いました。そのお一人お一人には、確実に生活があって人生があったはず。派遣される前にはご家族やご友人と、おそらく我々が普段しているような会話がなされていたはずです。

310万の内、海外の戦没者は240万。その内、中国本土は47万、ノモンハンを含む中国東北で25万、モンゴルを含む旧ソ連で5万。台湾と朝鮮半島は10万、ベトナム・カンボジア・ラオスで1万、ミャンマー14万、インド3万、タイ・マレーシア・シンガポールで2万。つまり、大陸で、約100万以上の将兵の犠牲がでています。

一方、レイテを含むフィリピンが最も犠牲が多く52万。沖縄19万、硫黄島2万、パラオ・グアムからミッドウェイを含む中部太平洋で25万、インドネシアは4万、西イリアン5万。そして、東部ニューギニア13万、ガダルカナルやラバウルを含むビスマーク・ソロモン諸島で12万。つまり、島嶼部で130万以上の犠牲者です。

パプアニューギニアからソロモン諸島は、かの有名なラバウルがあった。9万の大軍を送り込んでいたので連合軍も直接それに対処しようとはせず、レイテのあるフィリピンを主戦場としたため、東部戦線は完全に補給路を断たれ、言わば見放された格好になった。今回、参加した遺骨引渡式でご帰還された方々も、ガダルカナルに近いニューギニアの現場で精神的には極めて過酷な状態であったものと想像できます。

数年前、NHKが、南部戦線に関するドキュメンタリーを組んでいましたが(シリーズ物で他戦線のもあったようです)、そこに登場する生還者の言葉は未だに忘れられず、とても筆舌に尽くせるものではありません。もしこの世に地獄があるならば、恐らくはここがそうだと思うに違いなく、しかし地獄に入らばそこが地獄だとさえ思わなくなるのかもしれないということも感じさせられたものだったと記憶しています。政治を預かるということを生き方として選んだからではありませんが、しかし選んだから余計に、ひたすら刻み続けて行こうと思っています。

現在、遺骨収集を終えて帰還された将兵は、240万の内、半分強の127万柱。未帰還は113万柱とされていますが、現地国の事情や海没によって困難とされているものもあるので、収集可能なのは最大で60万柱と言われています。

3年前の平成28年5月、国会で戦没者遺骨収集推進法が可決成立し、遺骨収集が国の責務と明記されました。厚生労働省が所管する事業で、同法に基づいて定められた基本計画によって平成28年から平成36年が集中実施期間と定められ、同計画で指定されている日本戦没者遺骨収集推進協会が中心となって、遺族会やJYMAなどの協力を得ながら、毎年、各地に10〜20名くらいの収集団を組んで活動しています。

今回の東部ニューギニアの場合、派遣団は19名(協会本部4名、遺族会5名、東部ニューギニア戦友・遺族会6名、JYMA4名)で、2月14日~3月1日までの16日間の活動で、収容されたご遺骨は83柱であったそうです。団長からの帰還報告によると、日陰でも40℃を超える日々であったとのこと。恐らくは、熱帯ジャングルの土に眠る将兵の経験したであろう状況を正に実体験しながらの活動であったものと思います。

出典:大野敬太郎オフィシャルサイト「オピニオン」【2018年3月2日公開】

コラム:先憂後楽

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