民主主義政治には欠点が二つ存在します。一つは空気に流されて選択や結論を誤ること。もう一つは政治家の悪事を監視しきれないことです。一つはインターネットの普及でかなり改善が期待できます。しかし監視役となるとかなり難しい問題があります。そこで私が考えるのが、天皇陛下の役割の復活です。
民主主義にある限界
私は以前から、民主主義の限界というものを感じています。理由は主に二つあります。
一つは悪意ある情報操作や扇動による間違いが起こってしまうことです。例えば一つのある法案に対して、テレビや新聞といったメディアが偏った報道をしたらどうなるでしょうか。故意ではないとしても間違った印象を与える報道をしたらどうでしょうか。すると国民はその空気によって、一時的にとはいえ誤った考えを持つようになり、国民の声によって法案成立が困難になったりします。間違ったことを止められるのは良いことですが、正しい法案が通らないとなると国家運営に支障が出て大変なことになりかねません。
ただ最近はそういうことも少なくなりつつあるとは思います。理由はインターネットによる情報の多用化ですね。情報源が増えたことによって、メディアがメディアを監視しやすい時代になりました。これは喜ばしいことです。民主主義の欠点であった部分は、徐々に改善されていると言えるのではないでしょうか。
かつて日本は、国民とメディアの声によってアメリカとの戦争に向かってしまった歴史があります。これは民主主義が機能していたことを裏付ける事実ですが、だからこそ多数派の声に乗せられて選択肢を誤ったのです。また同じ過ちを犯すのではないかと心配していましたが、インターネットが救世主となりそうな気がします。
しかし民主主義には、もう一つ欠点があります。それは色々な所に必要な監視機関がないということです。最近では官僚の腐敗も言われていますよね。政治家の中には私利私欲で行っている人が結構な数存在するのではないでしょうか。『違憲だ!』という批判も最近はよく聞かれます。
例えば違憲かどうかの憲法裁判所は存在しません。今は最高裁でそれを行うことになっていますが、結論としてはほとんど機能していないのが実情です。だからといって憲法裁判所をつくったとしても、誰が判決をくだすのでしょうか。与党に任命権があれば自分達に都合のいい人が裁判官になるでしょうし、逆だと徹底的に違憲扱いされかねません。
国会議員が本当に馬鹿で、間違った政策を通そうとする場合もあるでしょう。政府や政治家の監視やチェックは必要だけれど、誰がどういう風にチェックすればいいのか、とても大きな課題があるように思えます。
戦前の日本には監視役が存在した
民主主義には大きな問題があります。それは、政治家に悪意があろうとも、国を滅茶苦茶にしかねない馬鹿であっても、それを監視できる者が存在しないということです。民主主義は国民の希望通りに政治を行うのが基本ですが、国民は政治のプロではありませんから間違いだって多々あります。それを無視してしっかりと政治を行うには、政治家の意思だけではどうにもなりません。かと言って間違っていると分かっていても、国民が言うからその通りにするでは政治家としては失格です。正しい選択をする意思を強くするには、監視役があった方がいいのです。それも国民が納得し得るだけの何かが必要なのです。
でもそれ、実は戦前の日本には存在していたんですよね。そうです、天皇陛下の権威による監視です。ご存じの通り、天皇陛下には権力がありません。それは戦前も同じですが、密室で意見をいう権利はありましたし、政治家に目を光らせることはできました。そしたら当然政治家はいい加減な決定はできません。緊張感のある会議室で、しっかりとした発言をしなければ途端に天皇陛下の信用を失うことになるでしょう。それは政治家にとって不名誉なことです。
だから戦前の政治家は、私利私欲で政治を行うことが難しかったはずです。とは言え、結構やりたい放題やっていた総理大臣もいましたけれどね。
今更憲法を改正し、天皇陛下の立場を戦前に戻すことは難しそうです。条文だけでも戻せたら、少しくらいは改善が期待されるのでしょうか。それもかなりの反対があるでしょうね。
だったらどうするべきなのでしょうか。
憲法に関しては、参議院を憲法審査に特化するなんて案もありますね。今の内閣法制局で決めるのも、そんなに悪くはないと思います。でも私利私欲で政治をする人に関してはなんともし難いですね。この辺り、今後考えてくれる政治家が現れて欲しい所です。