最後の離島振興指定、忘れられたハンセン病の島「大島」を救え

行政の対応は遅く、歯がゆさを感じることがあります。しかし、ここまで遅いと怒りしか感じません。香川県高松市の大島が2015年8月、ようやく国の離島振興対策実施地域に追加されました。大島はハンセン病の元患者が暮らす島ですが、らい予防法が廃止されてからなぜ20年近くも放置されたのでしょうか。

平均年齢82歳、極限まで高齢化が進んだ入所者

大島は高松港から北東へ約8キロ、瀬戸内海に浮かぶ面積0.62平方キロの小島です。島の大半を国立療養所大島青松園が占め、約80人の住民は青松園の職員と元ハンセン病患者の入所者だけ。ピーク時の1943年には740人いましたが、9分の1に減っています。

青松園は1909年、中四国8県のハンセン病療養施設「第4区療養所」として開設され、1946年に現在の名称に変更しました。瀬戸内らしく冬場にほとんど雨が降らず、温暖で暮らしやすい気候ですが、本土との交通は青松園が所有し、高松港、庵治港を結ぶ官用船しかありません。港湾施設は老朽化して大型船が入港できず、いまだに隔離されていた当時とさほど変わらない状態です。

人権学習などで観光客が増えているものの、島外との交流はまだ十分といえません。平均年齢は80歳を既に超え、65歳以上の高齢者が占める割合を示す高齢化率は90%。青松園が医療、介護サービスを実施しているものの、限界集落が生易しく思えるほど高齢化が深刻なのです。

故郷との縁が切れ、行くあてはどこにもない

ハンセン病患者は1907年、旧癩予防法が制定されて以来、半ば強制的に療養所に集められました。身内にハンセン病患者がいると、いわれなき差別を受けることから、ほとんどの人が家族や故郷との縁を断ち切り、療養施設に入っています。青松園にはこれまでに4000人近い入所者がありましたが、退所者は800人ほど。大半が青松園で人生を終えています。

男性は強制的に断種手術を施され、妊娠した女性は中絶を余儀なくされました。ハンセン病が遺伝病ではない感染症なのに、こうした人権無視の行為が優生保護法に明記され、長く続けられてきたのです。不治の病とされたハンセン病の特効薬が見つかったのは、戦後 間もない1946年。それなのに、人権を無視したらい予防法は1996年まで続きます。国の無策が多くの患者から人生を奪い取っていったわけです。

いわれなき社会の差別は今も残っています。大島に入る入所者の多くは故郷との絆を失い、島で暮らすしかないのです。

離島振興法指定はらい予防法廃止から約20年後

離島振興法は各都道府県が策定した離島の振興計画を実施するために必要な予算を国が一括計上し、地域振興を進めるのが目的。別の法律で地域振興が進められている沖縄、奄美諸島、小笠原諸島を除く約260の島が、実施地域に指定されています。

大島は2015年、追加指定されましたが、他のハンセン病療養所が ある島に比べて最も遅く、香川県でも最後の指定となりました。大島では2009年にハンセン病問題基本法が施行されたのを受け、入所者自治会が地域への開放を検討しました。
しかし、交通の便が官用船しかないことから、保険入院できる施設の誘致は困難と判断、将来構想の策定を断念しました。他の国立療養所がある地域が特別養護老人ホームや保育所を誘致したのに比べ、取り残されたわけです。

2013年になって改正離島振興法が施行されたのを受け、ようやく香川県と高松市が重い腰を上げ、振興方策の策定を始めたのです。らい予防法の廃止から20年近くが経ち、忘れられた島にやっと光が当たったことになります。

芸術祭開催でようやく始まった他地域との交流

振興策は「歴史の伝承」と「交流・定住の促進」を柱にしています。2010年にスタートした瀬戸内国際芸術祭も大島に光を当てました。3年ごとに開かれる このイベントで大島も会場になり、現代美術の展示や交流会が開かれました。

今年も3~4月に「海の復権」をテーマにした現代美術の展示があり、大勢の若者や芸術家が島を訪れ、芸術鑑賞とともに、悲惨な歴史を知ったのです。しかし、老朽化した港湾整備や民間航路の誘致は実を結んでいません。他の島並みに高齢者施設などのめども立っていないのです。

住民の高齢化を考えると、残された時間はわずか。入所者の1人は「大島だけが忘れられてきた」と言葉少なに語っています。いわれなき差別で苦難を与えてきた国や自治体に罪滅ぼしの気持ちがあるのなら、急いで整備を進めるべきではないでしょうか。

高田泰

高田泰

50代男。徳島県在住。地方紙記者、編集委員を経て現在、フリーライター。ウェブニュースサイトで連載記事を執筆中。地方自治や地方創生に関心あり。

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