学校教育を考えるうえで、欠かすことのできない課題に「いじめ問題」があります。
いじめについて何かと耳にするようになったのは実は1980年代ですが、それからいじめについては具体的な対策は行われないままになっています。いじめがおきても学校や教育委員会はそれを認めようとせず、なかなか解決できないケースも多い問題です。ではどうして学校はいじめを認めようとしないのでしょうか。
学校側の意見を優先してしまう教育委員会
どんなに殴られた跡が身体中にあっても、複数名の生徒に言葉の暴力として「きもい」「死ね」などのひどい言葉をかけられたとしても、それが「いじめ」として認定されないことがあります。
TVのニュースを見ていても「いじめは無かった」と主張する学校側の意見をよく耳にするのではないでしょうか。教育委員会というのは学校の教員があげた意見に対して、そのまま受入れてしまう場合が多いといいます。
もともと教育委員会に在籍している人の多くが学校現場から異動してきた教員であることからも、学校側の事情やなれ合いが出てしまうのです。学校側としてもできるだけ責任問題は避けたいと考えているはずです。
また教育委員会では専門家に偏ることのないように地域から多様な人材を広く集めてはいるものの、選挙等で選ばれるのではなく首長による任命制であり、それを公開する義務もないのです。そのため、学校に通っていても教育委員会のメンバーすら知らない人が多く、いつの間にか責任逃れをするような動きも出てきてしまっているのです。
学校側の人事評価が原因!?
現在の学校では成果主義の考え方が全体的に広まっていて、いじめがあると人事考課制度で減点がついてしまいます。これは1995年より導入された制度で評価によって給与に差ができてしまうのです。
教師にとって教育委員会にいじめを報告した場合、生徒の学校生活の状況や指導書などの膨大な調査が必要になり業務の膨大化に繋がること、さらには評価が下がるとなれば積極的にいじめを報告したいと思わなくなってしまうのではないでしょうか。
また、いじめの判断が難しいということもあります。それがただふざけているだけなのか、じめなのかの区別がつきにくいことも少なくありません。例えばクラスの委員長が指示していることに対していじめと決めつけてしまうのは、子供のやる気を阻害してしまいます。学校側としてもいじめられている生徒がいれば、それを解決させる義務がありますが認識していなかった、気付かなったとなれば責任を問われることもないのです。
しかも、教師がいじめにあった一方の意見を重視してしまうと、今度は加害者側の親からもクレームを受けることになってしまい訴訟などの大きな事件になってしまうこともあります。教師からすると教育委員会に報告したとしてもいじめが解決されることはなく、ただ評価を下げたり、いじめにおいて調査を行うことで、学校全体の責任問題になってしまうことを避けたいと考えてしまう傾向にあります。
こういった現状もあり警察が介入して、学校のいじめ調査を行う場合が多いのです。
学校のいじめ問題はなかなか解決できるものではありません。
実際にこの問題について日本だけでなく世界に視野を広げても、いじめによる自殺や暴力などあとを絶ちません。
学校や教育委員会としてもいじめの問題についてできるだけ関わりたくない、認めたくないと思う気持ちもわかるのですが、子供の命が掛かっている以上、発しているSOSに対してそのままにせず、生徒のためになる行動に取り組んで欲しいと思います。教育者として生徒を導く立場である以上、知らなかった、気付かなかったでは何かあった時に取り返しがつかなくなります。また、学校や教育委員会だけではなく、教育の成果主義の根本的な改革が必要から変える必要があるのではないでしょうか。