根室市、望郷の岬公園(四島のかけ橋)

北方領土の日はかなり過ぎてしまいましたが・・・

先日、とあるところでロシア関係が話題になったので、先月2月7日の北方領土の日に書こうと思っていたところでもあったので、改めてここに書き残しておきたいと思います。今年1月、ロシアのラブロフ外相は、平和条約と領土問題は同義ではないということを記者会見で表明しました。過去のロシアの立場と全く異なる認識であって、明らかに軌道修正であって我々としては容認できるものではありません。

ロシアは日本にとって重要な隣国なので慎重に改めてここに考えを記しておきたいと思います。

ロシア側の主張は以下のようなものです。まず北方領土はサンフランシスコ平和条約という戦後処理で日本が放棄したもの。現在はロシアが実効支配してロシアの領土。この条約にロシアが署名していないとしても日本の義務には影響は全くない。1956年の日ソ共同宣言はそれを前提に歯舞色丹の2島の引き渡し(返還ではない)を合意し、これが領土関係の唯一の文章である。この共同宣言のポイントは、諸島についての合意が最終的にどのようになりどのように達成されるかに関わらず平和条約署名問題を第一優先に掲げるというもの。領土に関する2島以外の要求は存在しない。4島が交渉の対象となる(つまりロシア領のまま日露共同開発)。日本の経済界が4島の活動に算入することを支持すると提案してきた。そのための何らかの特別の追加的制度、自由経済圏を創設することも提案してきた。これには平和条約は必要ない。平和条約は領土問題解決が前提ではない。平和条約のためには、貿易・経済・人的・文化・国際問題など相互協力を大幅に発展させることが不可欠である。

こうした主張には大きな問題がいくつもあります。まず日本側としては、サンフランシスコ平和条約でいう千島列島には北方領土は含まれていない事(後述)。1956年の日ソ共同宣言が平和条約交渉の原点であることは同じだが、それに続く1993年の東京宣言では4島の帰属に関する問題を解決することで平和条約を締結することで合意しています。つまり領土問題と平和条約は一体。さらに、2001年のイルクーツク声明と2003年の日露行動計画では、平和条約交渉を1993年の東京宣言を含む諸文書に基いて行うとされていますし、国境画定委員会が設立されています。つまり、最近の領土問題なんてないよ的な発言は、過去と大きく矛盾します。

最大の問題は、プーチン大統領自らがこうした一連の合意を確認しているということです。東京宣言で4島返還とは言っていないのですから、4島の帰属の交渉に入ることが今後のポイントになるはずなのです。で、日本側はさらに、この4島の帰属をめぐる交渉については柔軟に対応しますよ、と言っているわけです。

なんとしてでも交渉に入らなければなりません。ということは何としても首脳会談を実現しなければなりません。しかし重要なことは、前述した主張を正しく国際世論に訴えておくと同時にロシア自身にも正確に打ち返した上で交渉しないと、不利な状況で交渉にはいることになる。もちろん、交渉に入れないのであれば、もう知らない、ということでもあります。

以下、少し歴史的な確認をしておきたいと思います。

1951年のサンフランシスコ平和条約の2条(c)で、日本は千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄することとなりました。これは明文化されたものです。

なんでこの千島列島に北方領土が含まれないと日本が主張しているかというと、この部分の趣旨は戦争で日本が無理やり奪った領土は放棄せよ、ということであって、北方領土は歴史的事実からしてそれ以前から日本の領土だったので(当然1905年時点もその前も)、この条約締結の時にも吉田茂が、歯舞色丹は北海道の一部であるから千島列島には含まれないとし、さらにまた国後択捉については明確にしなかったものの、ソビエトによる一方的な収容を非難していて反論はないのであるから、立場は受け入れられたものとされています。

では歴史上なんで日本の領土かということを整理しておきたいと思います。もともと樺太の主に南部と北方領土4島には日本人が住んでいて、それ以外の樺太と千島列島にはロシア人が住んでいました。ただ、境目は明確ではなかった。

そこで、幕末の安政元年、1855年にロシア提督のプチャーチンと幕府の筒井政憲や川路聖謨の間で日露和親条約が締結され、ここで択捉島とウルップ島の間が国境であることが確認され、樺太については交渉決裂で従来通りあいまいのまま両国民混在ということになった。ちなみに、この時の川路という武士は、有能かつユーモアのある男であったらしく、ロシアの間でも話題の人であったと言う史実が残っています。

少し脱線しますが、実はこの時期はまさにクリミア戦争真っ只中。アメリカのペリーによる黒船砲艦外交ができたのはイギリスやフランス、そしてロシアがクリミア戦争で忙しく日本への関心を寄せる余力がなかったからに他なりません。そしてクリミア戦争と言ってもカムチャッカ半島あたりまで影響は出ていて、英仏が同地で盛んにロシアに対して砲撃を行った史実が残っています。プチャーチンは日本に着いてからクリミア戦争の事実を知り、さらに安政東海地震で自分の艦船であるディアナ号を失いながら、交渉を行っていたことになります。丁度祖国の安泰を案じながらプチャーチンは交渉していたことになります。

脱線しましたが、その後に、1875年の日露間で樺太千島交換条約によって、平和裏に、樺太は全面放棄でロシア領、千島は全島日本帰属ということが決まった。ここも日本国内では意見の対立があって、副島種臣という外務卿の樺太両国民住み分け論と、黒田清隆開拓次官による樺太放棄論の2論がぶつかっていましたが、征韓論で副島が下野して黒田の放棄論が明治政府内部で優勢となって結論がでた。条約交渉は、かの榎本武揚。ちなみに政府の立場ではありませんが、日本共産党はこの条約を根拠に現在でも千島全島の返還をロシア側に要求していると言われています(未確認)。

そして1905年に日露戦争の勝利によって南樺太も日本領になりました。その後にサンフランシスコ平和条約です。つまり、北方領土はこうした歴史上の事実からして戦争で勝ち取った土地では全くなくて平和裏に日本の領土であることが確定されたものであって、樺太とは全く違う。ちなみに樺太は放棄はしたけど帰属は関知していないというのが正式な立場です。実質的には領事館を置いているので追認したものと理解はできますが。

出典:大野敬太郎オフィシャルサイト「オピニオン」

コラム:先憂後楽

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