※本稿は2016年7月14日に公開されたものの転載です。
参議院選挙が終わりました。お世話になりました皆さまには心から感謝申し上げます。
参議院選挙やら都知事選などに想う
ところで、参議院選挙前後に東京都知事問題が噴出しましたが、どうも一部の立候補予定者の発言が気になってしかたありません。安倍総理は暴走しているから都知事選に出るとか、安保法案に反対だから出る、という発言の論理も日本語としても理解できません。
参議院選挙でも、政策を競争するのではなく、相手の議席を取らさないことが目的だという政党が現れるわ、自民党が勝ったら戦争になるよと高校生や大学生に触れ込んで回る政党も現れるわ、理解に苦しみます。かつて自民党も相当劣化していましたが、さすがに選挙の看板政策が日本語を成さないものはなかったような気がします(といっても今回の選挙で我が自民党の広報の在り方は大いに反省する必要があると思いますが)。
参議院選挙や都知事選と朱子学と陽明学
だからといって、儒学衰退によって政党が劣化したなどと言うつもりは毛頭ありません。ただ単に、前段の理解に苦しむ多くの有名人による発言を聞いていて、いろいろな先人先達たちの儒教に関する言葉、特に、朱子学と陽明学の違いを思い出したにすぎません。と言ってもそれらを自分は理解しているかどうかは甚だ疑問なので、ここは善然庵閑話シリーズにしておきたいと思います。
儒教は、広義の宗教であって人間を律する教えであり原理原則と捉えられますが、国家の在り方に大きく影響を与えた考え方であったことも多くの歴史家が指摘しているところです。
朱子学
儒教と言っても朱子学が国家権力によるコントロールに使われることが多かったはずです。朱子学とは、孔子の教えを再解釈し理論統合した朱子という思想家の教えで、それまで論語の解釈が複雑怪奇になりすぎて訳が分からなくなっていた11世紀ごろの南宋にでてきたものです。これ自体はルターの宗教改革ほどの大事業だったと思いますし大天才だったと思います。
私にその意を解説する知識はありませんが、誤解を恐れず本稿趣旨に沿った部分だけをざっくり言えば、修身・誠意を行って徳目を積み、学び己を修めた人が、人を治めるというものであって、つまり学問を積んで物事を分析できるに足る人が政治を行うべきだということになり、逆に言えばそうした権威には絶対従えということにつながり、東大出てれば権力もてる、知識さえあればえらい、そういう人は絶対だ、式の考えにつながり、支配者にとっては極めて都合のよい教えになります。
日本でも江戸時代に、幕府の命で林羅山が朱子学を導入したことは、徳川幕府が長く続く理由の一つだと考えられます。
陽明学
一方で、明治に入って陽明学に影響を受けた幕末の志士が、明治維新を起こします。陽明学は15世紀頃の王陽明が、当時、国家公認の教えとされ硬直化していた権威主義的朱子学体系に異を唱えて、いわば、従うのは権威ではなく、自らの信じるところだという説を唱えたもの。朱子学が知識や学問を重視するかわりに実践や物事を正すことを重視する考えです。
朱子学は先知後行と言って、考えることと行動することは別であって、思ってもやらないのが秩序だとしたのに対し、陽明学は知行一致と言って、考えることと行動することは常に同じであって、思ってもやらないのは思わないのと同じだと考えるものです。
陽明学はよっぽど朱子学よりイノベーティブであって、薄っぺらい解釈をすれば、時代に対処しやすい考え方です。日本には大塩平八郎やら吉田松陰・西郷隆盛などに伝播していきます。
例えば憲法改正と朱子学と陽明学
ここまで来たら、何を言いたいのか分かっていただいたかと思いますが、例えば憲法改正に関する薄っぺらい議論を聞いてて思うことは、朱子学ど真ん中で行けば憲法は改正してはいけないものですし、陽明学の表面的な部分だけで言えば、憲法は改正しなければなりません。
でも憲法変えないのであれば、変えないなりに日本が安定成長を維持でき平和を享受できる方策を示さなければなりませんし、憲法を変えるのであれば、それにそって何が必要でどうやるのかを(憲法以外で)示さなければなりません。
憲法を変えなかっただけでバラ色の日本が待っているわけでもありませんし、憲法を変えるだけでバラ色の日本が待っているわけでもないのです。そういう意味においての陽明学を我々は勉強しなければならないのだと思います。
なお当然ですが私は憲法改正した上で日本を築いていく必要があると思っています。そう主張すると、9条や安保の事をおっしゃる人ばかりですが、そういう薄っぺらいことでは全くありません。