歴史教育について長崎県民として思うこと

1.Facebookを中心に出回る「核武装論」

最近、私のFacebookページにとある書き込みが頻繁に見られた。「長崎県から立ち上がろう日本の核武装論」というタイトルの書きこみだ。

私の地元は長崎県長崎市で、多くの友人がFacebookを使っている。そんな私のFacebookページにこの「核武装論」が見られることに驚きを隠せなかったが、理由は至極簡単なものであった。

こともあろうに、私の長崎県の友人たちが「いいね」ボタンを押しているのだ。
長崎県といえば、広島と並んで、先の大戦中に戦略的な核兵器の使用で街を破壊された都市である。私の祖母もいわゆる「被ばく者」として、戦後を生きてきた世代である。私の友人たちの中にも、「被ばく三世」世代は多い。そのような中で、なぜ、「核武装論」がもてはやされているのだろうか。

2.「現代の危機」を強調する立場

そのFacebookの書き込みを見ると、論調はいたってシンプルであった。「隣国の拡大に対抗するのは核兵器だけ」との論旨である。政治の場でも多く語られている中国を引き合いに出し、同国の拡大路線にストップをかけるために核兵器による武装が必要であるとの見解を示していた。

こういった「中国脅威論」は、現在の外交・国防の場では必ずと言っていいほど目にするものだ。政治家主導の「中国脅威論」はあたかも個人のレベルでも多くが語られているような印象となって、長崎の若者たちに「核武装論」の投稿に対してFacebookの「いいね」ボタンを押させたのだ。

これは、過去の歴史を省みることなく政治の世界で巨大化する「現代の危機」にのみ目を向けた行動ではないのだろうか。多くの若者が、各メディアを使って流される「中国脅威論」に、その行為の意味を考えずに参加する様子ではないだろうか。「ポーランドに絶滅収容所を」という書き込みに「いいね」ボタンが押されるかどうかを考えれば、長崎で育った若者のこの行為にどういった意味があるかは想像に難くない。

3.日本の歴史教育の問題

この問題は、歴史教育の観点から説明し得る。
私自身も教壇に立って、歴史を教えてきた。その中で感じることは日本の歴史教育がいかに児童、生徒の思考を停止させ、過去を省みる機会を奪っているかということである。

例えば、歴史の授業はその帰結としてテストにて児童・生徒の学習状況を図る。その中で、教員も生徒たちも「点を取るための方法論的授業」を行うし、望んでいる。
これは、過去に目を向けることなく、過去の出来事をどこか檻の中に入れてしまって傍観者として眺める姿勢を促進する。檻の中で戦われる第2次世界大戦はまったく怖くなく、むしろ、現代に生きていることを感謝する時間とさえなっている。

政治主導での「過去の克服」が明確には成されないまま、現代まで来てしまった日本の歴史教育は、まさに「愚者は経験に学ぶ」を地で行く様相を呈している。過去の出来事よりも、「目の前の危機」が大きな影響力を持つのだ。それがたとえ幾ばくか誇大されたものであったとしても。

4.政府に求めるのは歴史教育の抜本的改革

歴史は「覚えること」に意味があるのではない、それは学習指導要領でも明確に示されている。
しかし、現場のレベルではそういったところよりも、学校での試験やセンター試験で点を取ることのできる暗記法がもてはやされている。この現実を受け止め、真に歴史を「考える授業」に変えていかなければ、今回のFacebookで起きた「事件」のようなことは今後もますます拡大するだろう。

SNSを通して、ある種の若者の政治参加が用意になったように感じる。それは、先の憲法9条改正の問題でTwitterやFacebookを用いたデモの下地づくりが成されたことからも明らかだ。
J.ハーバーマスの説いた、いわゆる「公共圏」はSNSの世界にまで拡大しているように感じるが、それがどういったベクトルで力を得るかは、そこに参加する人間にかかっている。

歴史を省み、歴史に学び、歴史を活かす思考のできる教育体制を整えることを願っている。それは、日本の教育目標改革と現場レベルでの改革を並行しなければならいものだろう。
中等教育(中学、高校)の出口としてのセンター試験が2020年に変わることはすでに周知事実だ。この改革がどこまで成果を上げるのか現場レベルで見守りたい。

山崎哲

山崎哲

20代後半、長崎県在住、独身、男性。社会科教師として小中高すべての学齢の児童・生徒と関わってきた経験から、教育問題、歴史、社会問題に対して関心を持つ。現在は独立しフリーライターとして活動している。