投票は先人の追悼でもある

投票率が取りざたされる昨今、政権交代のないマンネリな政治を許しているのは、何より投票しない国民の責任ではないのか~そんな投票の在り様を、別の見方で考えてみた話。

政権交代のない政治

先の衆議院選挙では、再び自民党を主体とした与党の勝利に終わった。この国の不幸は、民主国家にありながら、安定的な政権交代が実現しないところにある。よく「同政党による与党だからこその政治的安定」と言うが、言ってみればそれは、換気をしない部屋の空気のようなものだ。

一見外気に触れる必要もなく安定しているかに見えるが、どんなにクリーンに努めようとも次第によどんでしまうものである。真の安定とは安定的に換気可能なプロセスを保持できる仕組みそのものであって、結局政権移譲がないのはどんなに正当性を訴えたところで、所詮は腐敗プロセスの呼び水となるだけである。江戸時代でさえそこを考慮して、南北両奉行所があったくらいなのだから。

もともと今の選挙制度は、政権交代が実現できるような総取りを目算に改編されたものだ。しかし投票率が半分程度の実情では、決まった政党を支持する決まった人間が投票に赴くという「皮肉な安定」を変える手立てはない。

政権交代はなかった訳ではなかったが、結局2度とも決して成功とは言えない形に終わり、その失望感が棄権を助けてしまう結果をも生んだ。無論、野党のだらしなさが問題ではあったが、国民自身に選挙によって自分達の代表を選ぶ、と言う責任や意欲のようなものが伝わらないことも、決して無視はできない要因だろう。

それを憂いでか18歳参政権が実現したが、果たして本当に国民の権利を憂慮し設けた制度なのか、ただただ権力に脆弱な世代の票を確保せんとしたことなのか、疑わしき感もある。

投票と生活

そんな選挙結果への物議はどうあれ、選挙権を駆使して投票することを奨励することだけは、与党野党を問わず共通の目標である。例え盤石に見える与党であっても、投票率いかんでは~つまり安定票を持つ支持者さえも棄権するようになってしまっては~不確実な状況も生じかねないからだ。一方の野党が投票率をうんぬんするのは、むりからぬことである~無党派層の投票率はとかく気まぐれなのだから。

考えてみて欲しい~私達は総じて自分の一票で物事が変わるはずはないと考えがちであり、そのおめでたい謙虚さからその日曜日の要件を投票より優先させてしまう。

しかし優先した要件のあれこれも、決して政治と無縁とは言えない。バケーションに必要な諸経費も消費税を筆頭に政治が最終的に決める中身ではあるし、家族の教育にかかる制度や費用の何たるかも政治が決めている。パーティで使う道具や食品の安全性も、初稿は官僚が書いた法令であったとしても、最終的にそれを決するのは国民から選ばれた政治家なのである。

統計学的に言っても直感で述べても、過疎村の村長選挙ではない限り確かに一票では結果は変わらないかも知れない。しかしその一票がなければ、変わることも始まらないのである。努力は結果の十分条件ではないが、努力がなければ結果が生じない必要条件であることと、話は同じである。

墓参の意味も込めて

また、こうも考えられないだろうか~もともと私達は生まれながらに男女平等な選挙権を持っている。しかしこれは自然発生的に生まれたものでは決してない。勇気ある先人が、血と汗と引き換えに勝ち取った権利なのである。

どんなにこの選挙権を手に入れることが困難であったか、どれだけ犠牲を払ったのかは、教科書を読まずとも想像がつくに違いない。私達は先達の供養のために墓参をすることを慣習としている~どうだろう、選挙も選挙権を手に入れるために戦ったそんな人々の供養と考えてみては。

そう思えば、決して自らの一票を粗末には扱えまい。投票とは、投票の自由のために戦った勇士達への追悼の意味も込められているということを、生まれてから当たり前にその権利を甘受している私達は忘れてはならないのではないだろうか。

ともすれば目先の生活のための安定を求めてしまいがちだか、何より政治が換気されクリーンであることが、そんな先人への追悼の形なのである。

ヒロ松本

ヒロ松本

東京都在住 アラフィフ独身。国際政治学で修士号を持つ社会科学研究家。社会システムをわかりやすい比喩で解説したい在野の冷やかし。